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京都大学の学生が
借金を肩代わり
兵庫県神戸市
借金が3万円にまでふくらみ、まきのさんはこれまで集めてきた貴重な標本や書籍を売却して借金を工面しようとした。
これを知った農学士の渡辺忠吾が、「東京朝日新聞」に「篤学者の困窮を顧みず、国家的資料が流出することがあれば国辱である」と記事を書いた。この記事が「大阪朝日新聞」にも「月給35円の世界的学者。金持ちのケチン坊と学者の貧乏はこれが日本の代表的二大痛棒なり。牧野氏植物標本10万点を売る」という見出しで転載された。
この記事が反響を呼び、神戸から二人の有志が支援を申し出た。その二人は、鉱山王の久原房之助と、京都大学の学生・池長孟(いけながはじめ)だった。まきのさんは池長孟の支援を受けることにした。
池永は亡くなった父の遺産で10万点の標本を3万円で買取ってまきのさんに寄贈した。父が神戸・会下山に教育のために建設した正元館を、「池永植物研究所」として新たに開設し、標本をそこに保管した。さらに、借金を返済しても生活費に困るだろうということで、牧野家へ毎月の援助も申し出た。援助の条件として、まきのさんは月に一回神戸で研究することを約束した。こうして、まきのさんは借金から逃れることができた。
しかし、10万点という大量の植物標本は、なかなか整理することができず、一般公開されることはなかった。結局1941年に、まきのさんのもとへ返還される。
まきのさんの没後、遺族から寄贈された約40万点の標本を整理し学術資料として活用するため、1958年に東京都立大学に牧野標本館が設立された。当初は新聞紙の間にはさまれ、その上に採集記録が記入された未整理の状態だった。植物名を判別し、新たにラベルをつくり、台紙に貼付する整理作業が長期間にわたって行われた。現在ではそのほとんどが整理され所蔵されている。