東京都

まきのさんは『日本植物志図篇』を東大の植物学教室にあった書物や標本を参考にしてつくっていた。第1巻第6集を出版したころ、矢田部教授に「自分もお前とは別に、日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」と植物学教室の出入りを禁じられてしまう。

困惑したまきのさんは、矢田部教授の自宅を訪ね、「今日本には植物を研究する人は極めて少数である。その中の一人でも圧迫して、研究を封ずるような事をしては、日本の植物学にとって損失であるから、私に教室の本や標品を見せんという事は撤回してくれ。また先輩は後進を引立てるのが義務ではないか」と懇願したが、聞き入れられず、「西洋でも、一つの仕事の出来あがるまでは、他には見せんのがしきたりだから、自分が仕事をやる間は、お前は教室にきてはいかん」と強く拒絶された。まきのさんは大学の職員でも学生でもないので抵抗するすべもなかった。

そのとき「ムジナモ」を発見していたまきのさんは、東大を出禁になり、研究ができず困っていた。東大を卒業し農科大学の助教授になった友人・池野成一郎が研究室を使わせてくれたので、「ムジナモ」の研究を続けることができた。