1900年、「大日本植物志」が刊行されることになったものの、まきのさんの貧乏はますます加速していきます。

「雨風を知らぬ坊っチャン育ちであまり前後も考えないで鷹揚に財産を使い捨ていたのが癖になっていて、今でも友人から“牧野は百円の金を十円に使った人間だから”と言われていた」と本人も認めています。

助手の月給は15円。38歳の時に借金は2千円程度にも膨らみ、月給の100倍以上になっていたのです。

心配した佐川町出身の田中光顕伯らの斡旋で、その借金を整理すべく、高知出身の岩崎弥太郎が興した三菱へ話を持っていき、岩崎氏に肩代わりしてもらうことで、ひとまず借金は綺麗に片付きました。同郷のよしみとはいえ、さすが三菱、太っ腹です。