妻の寿衛さんは「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」と、まきのさんによく冗談で言っていたそうですが、本音だったかもしれません。大正8(1919)、寿衛さんは意を決し、万年講師のまきのさんと苦しい家計を支えるために渋谷の荒木山に小さな一軒家を借り受けて待合茶屋を始めます。それが「待合いまむら」。

待合茶屋とは大正時代に流行っていたサービス業で、待ち合わせたお客さんのオーダーによって料理を頼んだり、芸妓さんを呼んで宴席をする部屋貸しシステムで、男性たちの政治的な会合などに使われていたようです。

当時は「待合政治」という言葉もあり、寿衛さんが「待合いまむら」を営業していたのはその待合政治華やかなりし頃でもあり、寿衛さんの真面目な経営手腕で純利益は毎月60円あったと言われています。

その後、寿衛さんは苦労の中、昭和3年(1928)に亡くなりました。まきのさんはその愛妻の名を「スエコザサ」と命名し永遠に残しています。