明治17年(1884)、23歳となったまきのさんは独学の知識を携え、いよいよ東京で下宿生活を始めます。当時の人にとっては東京へ出ることは、外国へいくのと同じことでもありました。

幸運にも矢田部良吉教授に東京帝国大学の植物学教室に出入りが許され、ここでまきのさんは実力を発揮。「日本植物志図篇」という図説集などを刊行していきます。

しかし、28歳の時、突如、その教授から「自分もお前とは別に、日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せることは断る」と言われ、出入り禁止となってしまったのです。

噂によると、矢田部教授も図説集を自分で書こうとするも、やはりまきのさんには及ばず、牽制する意味で教室への出入りを取り消したのではないかと言われています。優秀すぎるまきのさん、嫉妬を買ってしまったようです。今でも東大にはこの制度が残っているそうですが、その教室出入り許可の第一号がまきのさんでした。