三菱に肩代わりしてもらい、チャラになったはずの借金も、文献の購入や調査旅行、研究費に膨大なお金がかかるため、家計は常に火の車。借金はまた、どんどん増えて行きました。

まきのさんは「大正5年 (1916 )の頃、いよいよ困ってほとんど絶体絶命になってしまったことがある」と綴っています。この時、まきのさん54歳。その借金の額は3万円となっていました。

貴重な標本や蔵書を売らざるを得ないほどの大ピンチを救ってくれたのは、京都大学に通う神戸市在住の25歳、大学生池長孟さん。まきのさんの窮状を報じた新聞記事がきっかけでした。池長さんは資産家の養子として養父の莫大な財産を相続していたのです。10万点の標本をまきのさんから買い取り、借金の方をつけ、その標本をまきのさんに寄贈する、牧野家にも月々若干の援助をしています。

この若い篤志家(とくしか)の申し出を受けた理由について、まきのさんは何も書き残してはいないようです。それにしても絶体絶命になっても、奇跡のように誰かが手を差し伸べてくれる。まきのさんは「もってる男」でもあったようです。